2007年5月29日火曜日

内山 節様 <2>

 内山さんが先週くださった返信で、竹内静子さんのことにも触れられていたので、竹内さんの「お別れの会」で感じたことをお伝えしたくなりました。多くの出席者がそうであったように私も、内山さんが竹内さんとごいっしょに暮らしておられたことを知りませんでした。ですから集まったみなさんが口にされたことは、お別れというより、お二人がそうであったことの驚き、そしてお二人への祝福でした。私は終始、不思議な感慨にとらわれていました。もしなにも事情を知らない人がこの宴席の様子を見たとしたら、お別れなのではなく、むつまじい小さな結婚の披露の宴だと思われたでしょう。あるいは内山さんにもそんな思いがあったのだろうかと、帰途、思ったものでした。
 韓国では、未婚のまま若い人が亡くなると、同じように亡くなった人を探して、死者と死者とを婚姻させるそうです。そのための披露も行い、以後、両家はじっさいにも親戚づきあいを続けるといいます。家としてのつきあいがいいかどうかは別として、私たちが生きるこの現実というものの相をあらためてとらえ直してみたくなります。「お別れの会」には「竹内静子の精霊」とだけ書かれた位牌が置かれていました。そのことがいまも深く私のこころに残っています。

 映画は「見えるもの」を手掛かりとして成立しているものですから、被写体となるのはつねに生きているもの、形をもつものです。当たり前のことですが、その生も形あるものも、いまそこにある一つの相として私たちは感受しています。でもそれを受け止めている側も日々移ろっているのですから、変化の動きが相殺されて見えにくくなるのでしょうか。あのときはこうだったと、いつも後になって変化してしまったことの大きさを思い起こすばかりです。
 もう二十六、七年も前のことになりますが、最初の監督作品となった『泥の河』を撮っていたときに、なぜ自分はこんなふうに感じるのだろうと自身で戸惑ったことがあります。俳優さんを撮ります。どう撮るか、それにはフレームによってサイズを決めなくてはなりません。初めてだったことの高揚もあったのでしようが、あるサイズで切り取ったその外は、どこへ行ってしまうのだろうなどと思ったのです。シナリオで書き、準備してきたことのあれこれは、子ども一人でもオーディションをするなりして出会わないことにはなにも始まらないのですから、撮影というものはむしろ出会いのよろこびの方が強いはずなのに、私は別れていくことの方を意識していたのかもしれません。撮影は、フレームの外となるものと別れていくこと、さよならをしていくことではないか、と。
 いささかナイーブに過ぎる感情です。その後の数は少ないとしても、まがりなりにも撮ることのできたいくつかの映画で、それがどう、どっちにより強く振れてきたのかは自分でもよく分かりません。ただ結果として、映画はテーマとしてそれを設定していなくても死生観といったものがよく映るものだとは思うようになりました。私はこのような死生観をもつ、そのように言葉でこうだとはいえないのですが、その周辺で右往左往していることだけははっきりと自覚できるようになりました。
 
 いつだったか、内山さんの上野村の家に出入りしていた小動物が死んで、死についてとりとめもなく話をしたことがあったように思います。私は死を怖いと思っているのに、内山さんはそのあたりがひどく穏やかで、あまりくっきりと線を引いていない印象がありました。だって向こうに行けばと、向こうといったかどうかがはっきりしないのですが、逝った人や動物や鳥たちともまた会える、そんな意味のことを語られたと記憶しています。すごいなあ、と思ったものです。その後、私も何人か親しい大事な人を亡くして、もしかしたらまた会える、そんなふうに思えるようにもなりました。どうやってその人を探すのか、そんな心配はなにもなくて、思った人のところへ真っ直ぐに行けるような気もしています。
 
 昨日、現職の農水相が首をつって自殺しました。おぞましいことです。疑惑の渦中にあった人の、日本人的な自死、などとも報道されましたが、こうしたときにいわれるところの日本というのは、いつのどこの日本を指してそういっているのでしょうか。武士による政治からですか、明治の近代化以降をいうのでしょうか。精霊も生きていた日本を考えれば、私たちはもっと伸びやかな精神と文化をもっていたのではないかと思います。
 それにしても醜いことです。政党の、あるいは政権のエゴイズムだけで片付けられません。政治は現実の選択だとしても、こうした不幸が起きるのは政治世界だけではなくなってきました。「現実」とはなにか、という認識が貧しくなってきている気がしてなりません。
 群馬県の知事選で、自民党の県連が党の公認候補を応援しないがきり、その国会議員は次の選挙で自民党公認としての手続きをとらないという報道がありました。こういう組織から離れていくことが地方自治だと考えるのですが、内山さんはどう思われますか。

2007年5月21日月曜日

小栗 康平様

 この数日、スケジュール的には少々苦しい日々を送っていました。ご返事が遅れたこと、お許し下さい。

 小栗さんとお付き合いを始めたのは20世紀が終わりに近づいている頃だったように思います。2001年に群馬で開かれた「国民文化祭」を小栗さんが総監督、私が総合プロデューサーで開催することになって以来ですね。

 群馬県上野村の私の家にはDVDが6~7百枚あります。子どもの頃に観ていたチャンバラ映画を含めれば、結構映画を観てきたのです。以前にある編集者から「黒澤明論を書かないか」とすすめられたことがあります。「僕が書くとひどいものになるよ」といったのを覚えています。その頃までにつくられた黒沢映画は全部観ていたのですが、天才的な監督であることは認めていても、私は黒沢映画に流れている思想が好きではありませんでした。「あの人の思想は西洋かぶれだから」と言ったのも覚えています。自立した個人が彼の理想なのです。それを見直すことができないままに、時代とずれていき、破滅していく。「どですかでん」はどうにもならないところにきていることを示していたような気がします。

 逆説的な意味で私の好きな哲学者にキェルケゴールがいます。19世紀の人で「死に至る病」が一番有名でしょうか。「死に至る病とは絶望のことである」から書き出されている本です。彼は人間は個人であることに固執しました。群れのなかで生きている「群衆」になることを拒否し、純粋な個人になりきるとき神と結ばれ自己が超越することにすべてをかけました。しかしその超越は実現せず、「のたれ死に」だけが待っていたのですが。

 ここまで自分を追い詰めた人、ということで私は好きなのです。しかし同時に彼をもって「個人」に理想を求めた時代は終わったとも思っています。そこに理想はありえないことを証明した、と言った方がよいかもしれません。

 私は戦後の近代化の雰囲気のなかで育ちましたが、それはまたこの雰囲気のなかに未来はないと感じて育ったということでもありました。ではどうしたらよいのか。その模索を続けている十代の頃に私を支えてくれていたのが竹内静子でした。18歳のときから一緒に暮らしていたのですが、昨年亡くなり、「お別れ会」には小栗さん、群馬県知事の小寺さんと、・・・ありがとうございました。

 私が上野村にはじめて訪れたのは20歳になって間がないころですが、ここでようやく自分の方向性をみつけだします。市民社会とか国民国家というヨーロッパ近代がつくりだした言葉ではなく、自然、風土、関係性、共同体、労働、といった言葉から未来をみる。

 知事の小寺さんに初めて会ったのは前橋の県民ホールでした。「地方自治法制定50周年記念」の講演を依頼されたのですが、そのときの私に与えられたテーマは「地方自治における自然の役割」というもので、このテーマで講演を頼みたいと言われたときは、絶句してしまいました。それまで考えたことがない難しいテーマでした。楽屋裏で小寺さんが「自治に自然が入らないのはおかしい。人間だけの自治ではいけない。だからその考え方を・・」と言っていたのを覚えています。

 国民文化祭の過程で小栗さんとご一緒し、多くの県民がここに結集し、文化、地域、風土、自然、労働と言った言葉を繰り返し使いながら、市民社会とは違う結びあう社会のあり方が、国民国家とは違う自分たちの世界のあり方が、行動をとおしてみえてきたと言う気がしたものです。その動きを支え続けてくれたのが小寺さんでした。だからこそ今度の選挙では自民党が離反したのでしょうけれど。

 すぐには返事を書けないかもしれませんが、寛容の精神でよろしくお願いします。小栗さんに教えてもらいながら、自分の考えを整理していってみようと思います。

2007年5月14日月曜日

内山 節様

 内山さんが、昨年亡くなられた竹内静子さんと交わした往復書簡「思想としての労働」から、私は多くのことを学んできました。この近代社会がかかえたさまざまな限界をどう乗り越えていくのかという示唆に富んでいて、他の著作とともに読む者を触発してくれます。竹内さんへのお手紙は「この社会は、無限に拡大しつづける経済を基礎にして、近代的市民としての人間と国民国家を基盤にしながら形成されてきました。」「ところが現在の私たちは、このいずれに対しても懐疑的なのです。」と始められています。私には書簡の全容を概説することはできませんが、近代的な個人としてとらえようとしてきた私たち自身を、さまざまな関係性のなかでもう一度とらえなおそうとする考え方が一貫していて、共感を覚えます。労働の過程そのものに蓄積されてきた技術の受け継ぎという関係、あるいは自然の循環に位置づけられる人間の関係性、古いものとして切り捨ててきた共同体の見直し、地域の新しい考え方などなど、どれも魅力にあふれるものです。

 私はこの視点を自分の映画の仕事に置き換えて考えます。映画は百二十年ほど前に「発明」されたメディアですが、当然のことながらそこには西欧近代の思想が色濃く反映しています。映画は画像の中心に人間、人物をとらえます。これはスクリーンという二次元の平面の、物理的な大きさからくる宿命といってもいいものですが、ことはそこにとどまらないで、人間を自立した個人として見ようとする近代思想を強めていくことになりました。映画の製作、流通も「拡大しつづける経済」を前提としています。でも映画は見るという行為が前提です。見ることで私たちはなにを見るかといえば、関係を見ている、そういってもいいでしょう。その関係は人物同士の人間関係、物語との関係といったことに限定されるのではなく、自然や風景、あるいは歴史といったことを含んでの人間存在が、なによりも「関係として」映ってしまうものだと、私は思っています。そのことを深めていくためには、映画のナラティブ、手法、文体を欧米の近代思想だけに頼らないで見つけていかなくてはなりません。

 こんなことを申し上げるのは、この七月にある群馬県の知事選が念頭にあるからです。96年の「眠る男」を製作した小寺弘之知事が出馬を表明していますが、小寺さんのほかに今回は自民党の公認候補(最近の新聞報道では推薦ではなく、公認になるとされています)と、早々と自民党県議を辞めて「眠る男」を槍玉に挙げて小寺批判を展開している無所属の候補と、少し複雑な構図になっています。群馬県はもともと保守王国とされてきたところですが、このことはまた別な機会に触れたいと思います。私は行政の発意と責任でもって映画製作を行った小寺県政が積み上げてきたさまざまな取り組みを評価していますが、そのことをどういうふうに発言していったらいいのか内山さんの意見もお聞きしたいのです。その取り組みの中には、内山さんが積極的に評価されている県民と行政との協働もあるでしょうから。

 フランスではアメリカ型の競争主義を掲げる大統領が誕生し、日本の国政では右傾化が顕著になってきています。こうした流れは世界的な傾向でもあるのでしょうが、その根底には生活実感とでもいうべき暮らしの手触りが奪われていて、不安の裏返しとしての民族主義や数値主義とでもいいたくなるような、思考の分かりやすさが大手を振って闊歩しています。暮らしの実感が乏しいことの背景には、映像をはじめとする猛烈な情報過多があるでしょうから、このことも映画の立場からいって看過できないことがらです。

 国民国家の成立と政党政治、地方自治と選挙というシステム、お尋ねしたいことがたくさんあります。いささか前のめりに書き出してしまいましたが、内山さんの寛容なご返事を待っております。