2007年5月14日月曜日

内山 節様

 内山さんが、昨年亡くなられた竹内静子さんと交わした往復書簡「思想としての労働」から、私は多くのことを学んできました。この近代社会がかかえたさまざまな限界をどう乗り越えていくのかという示唆に富んでいて、他の著作とともに読む者を触発してくれます。竹内さんへのお手紙は「この社会は、無限に拡大しつづける経済を基礎にして、近代的市民としての人間と国民国家を基盤にしながら形成されてきました。」「ところが現在の私たちは、このいずれに対しても懐疑的なのです。」と始められています。私には書簡の全容を概説することはできませんが、近代的な個人としてとらえようとしてきた私たち自身を、さまざまな関係性のなかでもう一度とらえなおそうとする考え方が一貫していて、共感を覚えます。労働の過程そのものに蓄積されてきた技術の受け継ぎという関係、あるいは自然の循環に位置づけられる人間の関係性、古いものとして切り捨ててきた共同体の見直し、地域の新しい考え方などなど、どれも魅力にあふれるものです。

 私はこの視点を自分の映画の仕事に置き換えて考えます。映画は百二十年ほど前に「発明」されたメディアですが、当然のことながらそこには西欧近代の思想が色濃く反映しています。映画は画像の中心に人間、人物をとらえます。これはスクリーンという二次元の平面の、物理的な大きさからくる宿命といってもいいものですが、ことはそこにとどまらないで、人間を自立した個人として見ようとする近代思想を強めていくことになりました。映画の製作、流通も「拡大しつづける経済」を前提としています。でも映画は見るという行為が前提です。見ることで私たちはなにを見るかといえば、関係を見ている、そういってもいいでしょう。その関係は人物同士の人間関係、物語との関係といったことに限定されるのではなく、自然や風景、あるいは歴史といったことを含んでの人間存在が、なによりも「関係として」映ってしまうものだと、私は思っています。そのことを深めていくためには、映画のナラティブ、手法、文体を欧米の近代思想だけに頼らないで見つけていかなくてはなりません。

 こんなことを申し上げるのは、この七月にある群馬県の知事選が念頭にあるからです。96年の「眠る男」を製作した小寺弘之知事が出馬を表明していますが、小寺さんのほかに今回は自民党の公認候補(最近の新聞報道では推薦ではなく、公認になるとされています)と、早々と自民党県議を辞めて「眠る男」を槍玉に挙げて小寺批判を展開している無所属の候補と、少し複雑な構図になっています。群馬県はもともと保守王国とされてきたところですが、このことはまた別な機会に触れたいと思います。私は行政の発意と責任でもって映画製作を行った小寺県政が積み上げてきたさまざまな取り組みを評価していますが、そのことをどういうふうに発言していったらいいのか内山さんの意見もお聞きしたいのです。その取り組みの中には、内山さんが積極的に評価されている県民と行政との協働もあるでしょうから。

 フランスではアメリカ型の競争主義を掲げる大統領が誕生し、日本の国政では右傾化が顕著になってきています。こうした流れは世界的な傾向でもあるのでしょうが、その根底には生活実感とでもいうべき暮らしの手触りが奪われていて、不安の裏返しとしての民族主義や数値主義とでもいいたくなるような、思考の分かりやすさが大手を振って闊歩しています。暮らしの実感が乏しいことの背景には、映像をはじめとする猛烈な情報過多があるでしょうから、このことも映画の立場からいって看過できないことがらです。

 国民国家の成立と政党政治、地方自治と選挙というシステム、お尋ねしたいことがたくさんあります。いささか前のめりに書き出してしまいましたが、内山さんの寛容なご返事を待っております。