2007年7月5日木曜日

内山 節様 <4>

 久間防衛大臣の「辞任」のニュースを聞いたとき、ちょうどマイケル・オンダーチェの「イギリス人の患者」という小説を読み終えたところでした。英語でいえば「イングリッシュ・ペーシェント」。十年ほど前に映画になって、アメリカ・アカデミー賞の作品賞をとっています。私は映画も見ていなかったので、すぐにDVDを借りにいきました。小説の最後近くで、主人公ではありませんが、主たる登場人物のうちの一人、インド人の工兵で地雷の処理を専門とするキップという男が、唐突と思えるほど突然に、仕事も恋人もすべてを捨てて去っていきます。鉱石ラジオで広島、長崎の原爆を知ったからです。他の人物の、そのことに対する反応は描かれていませんが、オンダーチェはスリランカ生まれの作家です。映画にこのエピソードはあるだろうかと確かめたくなったからです。でも予想した通りでした。触れてもいません。
 原爆投下に、白人種の、有色人種への蔑視があったのかどうか、は私には分かりません。しかし日本がアメリカとは宗教を異にする国であったことは、投下の前提として考えられることです。人類が大きな過ちを犯すときに、いつも宗教が顔をのぞかせます。久間大臣の「しかだがない」発言は、不適切だったなどという以前に、人間観においてなんの深さもない人物が、国政の、それも軍事を担当するというおそろしい現実を見せられた気になりました。しかも、辞任の理由はただひたすら参議院選挙にマイナスになるのでという一点でしたから、開いた口もふさがりません。
 今日告示された群馬県知事選挙では、自民党の「公認候補」が小寺さんの対抗馬の一人として立っています。群馬県は長い間、保守王国として君臨してきました。小寺さんは知事三期目まではこの圧倒的な多数を与党として、独自な施策を展開してきました。私がかかわった映画「眠る男」の製作もその一つでした。当時の県議会は全会一致でこれを承認しています。私は小寺さんの、手だれでない、非政治的な手法が奇跡的にも機能していた時期だったと思っています。ところが四期目から副知事の人事案件を自民党県議団が否決してから事情が一変しました。このあたりの事情は、内山さんもよくご存知のところです。表面的には人事の案件でしたが、根底にあるのは次の政権を自民党がよかれとしていた人物に渡しなさいという申し出でもあったのです。この強引なやり口は四期目の選挙のときにすでに画策されていたことでした。多選批判を金科玉条として、いかにももっともらしい批判を展開する人たちもおりますけれど、今度の選挙は初めてのそれといってもいいほどのもので、はっきりと自民党と対立して県政を担おうとする、一期目ともいえるものです。悪いのは群馬県の自民党で、そのつまらない権力構造が問題なのであって、自民党そのものではないとする考えもなくはないでしょうが、少なくても地方分権をいうのであれば、自治は中央組織から離れなくてはなりません。今度の知事選の帰趨を注視したいと思っています。
 オンダーチェの小説はおもしろかったです。大戦末期のアフリカ、イタリアを舞台として、時制がめまぐるしく変わるものですから、描写の細部が積み重なって物語をつくるというよりも、むしろ分散されて直線的には進まないこと、そのものを楽しむような小説でした。言葉は現在形でも過去形でも、外部の描写でも内面の描写でも、それらはみな語られ、表記されるものです。映画はそれができません。現在形だけしかありません。回想シーンも映画の中では、回想としての現在です。アンソニー・ミンゲラー監督、脚本の「イングリッシュ・ペイシェント」はよくできた映画でした。画像もよく撮られていましたし、折り目正しい映画ではありました。でも、私たちは映画で、人間のなにを見たいと思っているのか、人間のどういう状態を画像として見たいと思っているのか、といった根本にかかわる問いにおいて、私には不満足でした。内山さんのおっしゃる「消費」を超えて、映画がどのように成立していくのか、ますます難しくなってきているように思われてなりません。