2007年7月16日月曜日

小栗康平様 <4>

 小栗さんとの「交換日記」は、いうまでもないことですが、パソコンで書いています。手書きのものを載せることもできるかもしれないけれど、その場合もPDFファイル化するなど、パソコンのお世話にならなければならないでしょう。
 私は普段の原稿は手書きです。結構新しもの好きなので、昔からワープロ、パソコンは使っているのですが、文章のリズム感が手書きとは違ってくるのが嫌なのです。
 さてこんなことを書いたのは、最近手段が選択できなくなりつつあると感じているからなのです。今日では目的は案外多様になっているような気がします。ところが、手段が硬直している。たとえば企業に属さずに働き、生きていきたいと考える若者はいまではたくさんいます。そういう選択を生み出す背景にはいろいろな気持ちが動いています。しかし企業に属さないという選択をした瞬間に、都市社会が用意している手段はほとんどフリーターだけになってしまう。
 この不自由さを一番感じるのが「政治」である、と思っています。政治への参加の仕方は多様にあるはずなのに、現実には、多くの人にとっては、投票という方法によってしか参加できない。人々のいろいろな気持ちが、手段のところでは一元化されてしまうのです。ブログで表現することは様々でも、手段はパソコンかミニパソコン的機能をもった携帯に一元化されるように。
 こんなふうに考えていくと、自由にやりなさいといいながら、その手段はしっかり管理されている社会、それが現代社会ではないかという気がしてきます。
 私は小寺知事と自民党の関係が緊迫したのもこのことと関係があると思っています。自由におやりなさい、しかし行政のもつ手段はしっかり管理させていただきます、というのが自民党のとってきた態度ではないかと。特に群馬では小寺知事が住民参加型の行政を促進し、行政がもつ手段そのものを改革してきたことによって、つまり手段に多様性をつくろうとしたことが、現代の体制を維持しようとする者に危機感を抱かせたのではないかと思います。
 手段が管理されているためにそのシステムから抜け出せない社会、この手段管理型社会が現代なのでしょう。そこに現代の鬱陶しさがある。だから私は小寺知事が「小さな自治」を提唱したときそれを支持しました。「小さな自治」とは「小学校の学区単位くらいで成立する住民自治組織を創造する」課題として提起されましたが、行政のもつ手段を住民に開放してしまおうという試みでした。
 広島、長崎への原爆投下は、戦後の世界システムの手段はアメリカが管理する、というメッセージでもありました。そして、だからこそ、国家の政治の手段は自分たちが管理するというかたちで存在してきた政治家からは、「うかつな本音」もでてくるのでしょう。
 一部の宗教も手段を管理することによって成立しました。「神に懺悔する」というのも手段の管理でしょう。社会学者のマックス・ウエーバーは、自分の仕事を天職ととらえるプロテスタンティズムの精神が資本主義の基盤をつくったと書いていますが、天職として自分の仕事に専念することによって神に招請されるというなら、ここにも手段の管理があります。しかしそれが宗教のすべてではないと私は思っています。たとえば「悟り」を開いていくための手段は自由な宗教もあるのですから。
 手段が自由な社会は可能か、という問題意識を最近の私は抱いています。