2007年8月16日木曜日

小栗康平様 <5>

 今回の群馬知事選は残念な結果でしたが、とりあえずこの結果を受け止めておこうと思います。というのは、私は議会制民主主義とか選挙によって代表を選ぶという方法がベストのものとは思っていないのですが、選挙制度のものでの候補を応援した以上、選挙制度が持つ虚構をも受け入れるしかないと思っているからです。その虚構とは選挙民はつねに正しい判断をする、という虚構ですが、それを受け入れることが、選挙に参加した以上必要になると考えています。
 ただしそのことと、これからどうするかということは別のことです。私がまず第一にしなければならないことは、県民参加型の群馬の行政のあり方を維持すること、つまり小寺県政時代の遺産を守ることです。それが行政との関係ではできないことになるなら、NPO的にそれを推進する仕組みを創ることだと考えています。近くお会いして相談しましょう。
 参院選をみて、日本の伝統に安倍政権は敗北した、という感想を持ちました。日本の民衆史をみると民衆は自分たちの世界をつくって、ときの権力とは適当によい関係をつくっておくという行動をとってきたという気がします。たとえば村という共同体を自分たちの聖域としてつくり、それを守るためにときの権力とはまずまずよい関係をつくっておく。戦後の日本では共同体は弱体化しましたが、企業という疑似共同体をつくり、そこで生きるためにやはりときの権力とはよい関係にしておくというかたちが成立していました。そのとき忘れてはならないことは、自分たちが生きる「共同体」に権力が手を突っ込んできて、「共同体」が維持できなくなったときは、一揆を起こすなどの闘いを辞さなかったことです。権力が自分たちの聖域に手を突っ込まない限り現状維持的なのですが、この暗黙のルールが崩されたときはおとなしくしてはいなかったのです。現代とはどのような領域でも自分たちの聖域が守れなくなった時代です。小泉改革以降、政治が自分たちの世界に手を突っ込んできたのです。村が守れなくなり、企業とともにあった疑似聖域も自分たちが安心して生きていく世界ではなくなってしまった。こうなれば人々は一揆を選択するのであり、その最初のかたちが今回の選挙だったように思います。私が伝統に敗北したというのはそういう意味です。
 今日は上野村にいます。とても暑い一日でした。今年は蜂の当たり年らしく、そこらじゅうに巣をつくっています。私は蜂も大事にしているのですが、その気持ちは蜂には通じていないのか、おとといは五カ所も刺されてしまいました。ということで、腫れ上がった左手も使って、この文章を書いています。蜂に厳しく文句を言ったせいか、今日の蜂はなにかしょんぼりしていて、近くに行ってもひっそりしています。左手の腫れが引いた頃にでも、一度お会いしましょう。

2007年7月31日火曜日

内山 節様 <5>

 すっかりご無沙汰してしまいました。前回お手紙をいただいてから今日まで、群馬県知事選挙と参議院選挙の二つがありました。参議院選挙では自民党が大敗したにもかかわらず、そのわずか一週間前に行われた群馬県の知事選挙では、自民党公認候補に小寺さんが敗れてしまいました。群馬では参院選でも自民党候補が例外的に無風なまま小選挙区を制したのですから、群馬の保守王国は変わらなかったということでしょうか。しかし多少なりとも近くで小寺さんを見てきた私には、ただ単純にそう括ってしまってはなにもとらえたことにはならないと思っています。

 知事選は保守の分裂選挙だといわれました。問題はその保守の意味する中味です。国政選挙でも無党派層がこんなにもいるなどと、いかにも嘆かわしいことのようにいわれますが、どの党であれ、党員よりは党には属さない人々の方が圧倒的多数です。政党選挙でしか行えない国政の選挙では、そのつど、やむなく支持する政党を選択しているというのが実情ではないでしょうか。地方自治はかならずしもこうした仕組みに縛られるものではありません。むしろ国政とは異なる積み上げがあって初めて、地域の自治が成り立つはずです。もちろんその前提として形ばかりの分権ではなく、税の権限委譲を含めた制度変更が欠かせませんが、少なくても小寺さんは自治のあり方について模索をしつづけてきた人ではありました。そのことのじっさいを伝えられず、受け止められず、ただ保守の分裂というレベルでとらえられてしまったことに、敗因があったと私は考えています。多選批判があったことは事実ですが、そんなことは承知していたことで、他の候補を見ればもう一期、やらざるをえなかったことだけは明白だったのですから、残念です。

 国政で自民党が歴史的な大敗をしたとはいっても、つぎの時代に向けてあたらしい想像力が芽生えているようには思われません。暮らしにしても仕事にしても、政治がいつも上位の概念としてあるわけではありませんから、まだまだやれることはあるはずなのですが。

2007年7月16日月曜日

小栗康平様 <4>

 小栗さんとの「交換日記」は、いうまでもないことですが、パソコンで書いています。手書きのものを載せることもできるかもしれないけれど、その場合もPDFファイル化するなど、パソコンのお世話にならなければならないでしょう。
 私は普段の原稿は手書きです。結構新しもの好きなので、昔からワープロ、パソコンは使っているのですが、文章のリズム感が手書きとは違ってくるのが嫌なのです。
 さてこんなことを書いたのは、最近手段が選択できなくなりつつあると感じているからなのです。今日では目的は案外多様になっているような気がします。ところが、手段が硬直している。たとえば企業に属さずに働き、生きていきたいと考える若者はいまではたくさんいます。そういう選択を生み出す背景にはいろいろな気持ちが動いています。しかし企業に属さないという選択をした瞬間に、都市社会が用意している手段はほとんどフリーターだけになってしまう。
 この不自由さを一番感じるのが「政治」である、と思っています。政治への参加の仕方は多様にあるはずなのに、現実には、多くの人にとっては、投票という方法によってしか参加できない。人々のいろいろな気持ちが、手段のところでは一元化されてしまうのです。ブログで表現することは様々でも、手段はパソコンかミニパソコン的機能をもった携帯に一元化されるように。
 こんなふうに考えていくと、自由にやりなさいといいながら、その手段はしっかり管理されている社会、それが現代社会ではないかという気がしてきます。
 私は小寺知事と自民党の関係が緊迫したのもこのことと関係があると思っています。自由におやりなさい、しかし行政のもつ手段はしっかり管理させていただきます、というのが自民党のとってきた態度ではないかと。特に群馬では小寺知事が住民参加型の行政を促進し、行政がもつ手段そのものを改革してきたことによって、つまり手段に多様性をつくろうとしたことが、現代の体制を維持しようとする者に危機感を抱かせたのではないかと思います。
 手段が管理されているためにそのシステムから抜け出せない社会、この手段管理型社会が現代なのでしょう。そこに現代の鬱陶しさがある。だから私は小寺知事が「小さな自治」を提唱したときそれを支持しました。「小さな自治」とは「小学校の学区単位くらいで成立する住民自治組織を創造する」課題として提起されましたが、行政のもつ手段を住民に開放してしまおうという試みでした。
 広島、長崎への原爆投下は、戦後の世界システムの手段はアメリカが管理する、というメッセージでもありました。そして、だからこそ、国家の政治の手段は自分たちが管理するというかたちで存在してきた政治家からは、「うかつな本音」もでてくるのでしょう。
 一部の宗教も手段を管理することによって成立しました。「神に懺悔する」というのも手段の管理でしょう。社会学者のマックス・ウエーバーは、自分の仕事を天職ととらえるプロテスタンティズムの精神が資本主義の基盤をつくったと書いていますが、天職として自分の仕事に専念することによって神に招請されるというなら、ここにも手段の管理があります。しかしそれが宗教のすべてではないと私は思っています。たとえば「悟り」を開いていくための手段は自由な宗教もあるのですから。
 手段が自由な社会は可能か、という問題意識を最近の私は抱いています。

2007年7月5日木曜日

内山 節様 <4>

 久間防衛大臣の「辞任」のニュースを聞いたとき、ちょうどマイケル・オンダーチェの「イギリス人の患者」という小説を読み終えたところでした。英語でいえば「イングリッシュ・ペーシェント」。十年ほど前に映画になって、アメリカ・アカデミー賞の作品賞をとっています。私は映画も見ていなかったので、すぐにDVDを借りにいきました。小説の最後近くで、主人公ではありませんが、主たる登場人物のうちの一人、インド人の工兵で地雷の処理を専門とするキップという男が、唐突と思えるほど突然に、仕事も恋人もすべてを捨てて去っていきます。鉱石ラジオで広島、長崎の原爆を知ったからです。他の人物の、そのことに対する反応は描かれていませんが、オンダーチェはスリランカ生まれの作家です。映画にこのエピソードはあるだろうかと確かめたくなったからです。でも予想した通りでした。触れてもいません。
 原爆投下に、白人種の、有色人種への蔑視があったのかどうか、は私には分かりません。しかし日本がアメリカとは宗教を異にする国であったことは、投下の前提として考えられることです。人類が大きな過ちを犯すときに、いつも宗教が顔をのぞかせます。久間大臣の「しかだがない」発言は、不適切だったなどという以前に、人間観においてなんの深さもない人物が、国政の、それも軍事を担当するというおそろしい現実を見せられた気になりました。しかも、辞任の理由はただひたすら参議院選挙にマイナスになるのでという一点でしたから、開いた口もふさがりません。
 今日告示された群馬県知事選挙では、自民党の「公認候補」が小寺さんの対抗馬の一人として立っています。群馬県は長い間、保守王国として君臨してきました。小寺さんは知事三期目まではこの圧倒的な多数を与党として、独自な施策を展開してきました。私がかかわった映画「眠る男」の製作もその一つでした。当時の県議会は全会一致でこれを承認しています。私は小寺さんの、手だれでない、非政治的な手法が奇跡的にも機能していた時期だったと思っています。ところが四期目から副知事の人事案件を自民党県議団が否決してから事情が一変しました。このあたりの事情は、内山さんもよくご存知のところです。表面的には人事の案件でしたが、根底にあるのは次の政権を自民党がよかれとしていた人物に渡しなさいという申し出でもあったのです。この強引なやり口は四期目の選挙のときにすでに画策されていたことでした。多選批判を金科玉条として、いかにももっともらしい批判を展開する人たちもおりますけれど、今度の選挙は初めてのそれといってもいいほどのもので、はっきりと自民党と対立して県政を担おうとする、一期目ともいえるものです。悪いのは群馬県の自民党で、そのつまらない権力構造が問題なのであって、自民党そのものではないとする考えもなくはないでしょうが、少なくても地方分権をいうのであれば、自治は中央組織から離れなくてはなりません。今度の知事選の帰趨を注視したいと思っています。
 オンダーチェの小説はおもしろかったです。大戦末期のアフリカ、イタリアを舞台として、時制がめまぐるしく変わるものですから、描写の細部が積み重なって物語をつくるというよりも、むしろ分散されて直線的には進まないこと、そのものを楽しむような小説でした。言葉は現在形でも過去形でも、外部の描写でも内面の描写でも、それらはみな語られ、表記されるものです。映画はそれができません。現在形だけしかありません。回想シーンも映画の中では、回想としての現在です。アンソニー・ミンゲラー監督、脚本の「イングリッシュ・ペイシェント」はよくできた映画でした。画像もよく撮られていましたし、折り目正しい映画ではありました。でも、私たちは映画で、人間のなにを見たいと思っているのか、人間のどういう状態を画像として見たいと思っているのか、といった根本にかかわる問いにおいて、私には不満足でした。内山さんのおっしゃる「消費」を超えて、映画がどのように成立していくのか、ますます難しくなってきているように思われてなりません。

2007年6月24日日曜日

小栗康平様 <3>

 上海は暑そうですね。水あたりなどしませんように。 
 近代の思想にはふたつの傾向があると私は思っています。ひとつは民衆に絶望しいく傾向、つまり結局は民衆は駄目だったと考えていく傾向です。もうひとつは現実にはいろいろあっても最後は民衆は信頼できると考える傾向で、このふたつの間でたえず揺れ動いてきたのが全体としての近代思想でした。この絶望への誘惑を断ち切っていくとき思想は健全だったと私は思っているのですが、今日のテレビや映画にみられる一般的な傾向は、絶望でもないし、信頼でもないように感じます。いわば観客を消費者としてみているもので、消費者に受けるものをつくっているうちに、その消費者からも飽きられているのが、今日のテレビかもしれません。
 ここに多数派をつかもうとする者の落とし穴があるように思っています。
 民衆を信頼するとは、民衆を信頼する物語のなかに自分を置く、ということのように思います。私たちは民衆のすべてがわかるわけではなく、また民衆をひとつのものにしてしまうこと自体が不遜なことです。ですからこれは、信頼という価値判断をしているようで実は価値判断ではなく、信頼という物語のなかに自分をおいているだけなのです。私はそのことを大事にしたいのですが、この物語が破綻していくとき現れてくるのが絶望なのですから、民衆への絶望とは、実は、自分の描いた物語への絶望なのです。
 民衆を消費者としてみる視点にはそのどちらもがありません。あるのは民衆への侮蔑と迎合だけでしょう。
 選挙は多数派をつかまなければなりません。今日の自民党がしていることをみると、まさに民衆への侮蔑と迎合だけで、しかもそのシナリオまでが破綻しているのですから、あきれてしまいます。
 私が小寺さんを好きなのは、小寺さんはいつも自分の物語を語っていたように感じるからです。平和の物語、地域自治の物語、群馬の物語、・・・・・。群馬の民衆がつくる群馬の物語です。その中に自分を置いて知事としての仕事をしてきたように感じます。小栗さんが本気で知事選に参加しようとしているのも、おそらくそういうことがあるからでしょう。
 この消費社会のなかで、人間を消費者としてみないといことはむずかしいものです。しかしそれだけは拒否しつづけたいものでもあるのです。映画の世界でそれを拒否してきた小栗さんに敬意を表しつつ。

2007年6月22日金曜日

内山 節様 <3>

 今回は私の返信が遅れてしまいました。国際映画祭のコンペティションの審査で、十五日から上海に来ています。ふだん、あまり映画を見ているほうではないので、こうした機会はありがたいといえばありがたいものです。まとめて見ると、世界で映画がどのようにとらえられているのか、それなりに感じるものがあるからです。
 前回のお手紙で内山さんは、日本のテレビの、あまりにもひどい現状を指摘されていました。テレビというメディアは、どこの国でもニュースキャスターの報道番組、ワイドショー、スポーツ、お笑いや歌謡のエンターテイメントと、やっていることはそれほど変わっているとは思えませんが、ここまで無批判に繰り返され、その中身が以前に増してさらに貧しいものになっていくのは耐え難いことですね。そう感じている人は少なからずいるはずなのですが、テレビとはもともとこんなものだとあきらめてしまうのでしょうか、視聴の傾向は大きく変わってはいきません。「こんなもの」いう括りを私たちはどうつくってしまったのでしょうか。
 「こんなもの」には「この程度のもの」という侮蔑と、「こういうもの」だという浅い理解との、両側面があるかと思います。「この程度」については、商業が得意になって当てはめてくる枠組みでもあります。映画でもまったく同じことがいえるでしょう。映像は言後と違い、家庭でも学校でもそれを学ぶ機会をもっていませんから、どうしても一人ひとりの恣意的な選択に委ねられます。映画もテレビも多くの人たちを対象としたメディアとして成立してきましたから、そこではいつも商業が優先されています。最初からその選択肢が限られているのですから、どう視聴しても個人的な好悪の判断が固定されるだけで、よりよいものを求めることにはなかなかなりにくいのが現状です。
 画像は人物が喋ることを聞きやすいサイズとする。これは映画でもテレビでも基本とされている考え方です。テレビは映画に比べて画像が小さいですし、放送ということで映像よりも音声が優先されますから、その基本がさらに強く現れます。考えてみると、こうしたことも「こんなもの」の範疇で、どうしてそうでなくてはならないのか、そうであることの根拠やその限界についてあまり考えません。
 画像という二次元の平面に置き換えられたもので人の話を聞くとなると、そのサイズは人の上半身か首から上、アップなどといわれるフレームになることが一般的ですね。しかしこれはあくまで画像という作られた平面で接するときの,聞きやすさといって程度のことで、現実にはそこまで近寄って人の話を聞くことはあり得ません。でもこうしたサイズで人が喋っていることを、私たちは分かりやすい、伝わりやすいことだとして日常化して受けとめています。ここには全身がありません。身体の全体がないのです。さらにはその人が生きる「場」との関係性も捨て去られて、言葉と顔とが一人歩きしています。
 こちらに来る前に、想田和弘さんという人の「選挙」というドキュメンタリー映画を見ました。想田さんとは十五、六年前に、やはり映画祭でニューヨークへ行った折に会っていました。アメリカでの映画アカデミーを卒業したばかりで、タイトルは忘れてしまいましたが彼の短編を一本、見ています。都市での、閉塞した観念世界をとらえたものでした。その彼がまったく違う「選挙」という映画を撮ったことが驚きでもありました。
 川崎市議会議員の補欠選挙に立候補した、大学時代の友人を追いかけたものです。小泉自民党が圧勝した国政選挙と同時におこなわれたもので、市議の補欠選挙に国政の対立の縮図がそのままもちこまれていて、選挙戦はなんとも不思議な展開になります。その候補者は自民党が公募で選んだ人で、落下傘候補です。ただただひたすらに町内会をまわって顔を売り、口にすることは「改革の小泉自民党公認候補、××です」の一点です。他にはなにもいいません。小泉首相が国政の応援で川崎に入り、街頭で選挙カーの上に乗るのですが、市議のその候補者は車の下段で、上には上げてもらえません。垂れ幕だけがいっしょに下げられていて、それだけでも大変なことだと周囲からいわれます。私はこのドキュメンタリーを見ていて、テレビや映画で見るバスト・ショットとは、現実世界にこうした精神の形を作り出す。そう思いました。人の姿と言葉とが、私たち自身の感受性から引き離されて、正体のない概念に置き換えられているのでしょう。劇場型選挙などと当時いわれもしましたが、その劇場をテレビ、映画と考えれば、そう名づける前に劇場そのものを問わなければならないのでしょう。
 七月の群馬県の知事選挙でも、自民党は党としてのバスト・ショットをなりふりかまわず印象付けてくることでしょう。小寺さんがこれまでやってこられた地方自治は、こうしたバスト・ショットに反して、地域という場と人の全身とを、取り戻そうとしてきたのだと私には思えます。
 今日もこれから三本の映画を見ます。日本の同質的な社会に、映画やテレビがどのように根を下ろしたのか、掘り下げたいことはまだまだあるのですが、取り急ぎの返信で失礼します。

2007年6月8日金曜日

小栗康平様 <2>

 今回も返事が遅くなりました。このところ、困ったスケジュールなのです。
 竹内静子か゜亡くなったとき、私は、自然とともに暮らした日本の民衆の送り方ですべてをおこないたいと思いました。でもそれは難しいものですね。位牌は「竹内静子の精霊」としましたが、精霊とは肉体の制約から自由になった魂、という意味です。しかし、そもそも位牌とは鎌倉時代に臨済宗の中国から来た僧侶が持ち込んだもので、儒教の先祖供養を仏教に取り込んだものです。臨済禅は儒教色の強い仏教だと私は思っているのですが、この位牌が次第に広がり、江戸時代に一般化したのです。この過程では仏教が積極的に先祖供養をしていく変化があり、江戸時代に幕府の命令でつくられた寺檀制度がそれを後押ししました。幕府の基本思想は儒教ですから、家単位で民衆に先祖供養をさせようとしたのです。もっとも本来の儒教なら家ではなく、一族単位のはずですが。この過程でやはり江戸時代に次第に定着していったのが仏壇で、つまり位牌をつくり仏壇におさめるとい形式は古代からの民衆の供養の仕方ではないのです。そんなことを考えながらも、やはり位牌をつくりました。ただし魂は自然に還るのというのが、古代からの自然と共に生きてきた人々の思いですから、私自身もいつかは自然のなかに還っていくのだということを楽しみにしています。
 小学校を卒業する頃のことだと思いますが、ふと、自分が怖がっているのは死ぬことではなく、死ぬまで生きなければいけないことだと気がつきました。人間はどんなにむごたらしくも生きていくことができる。そのことが自分の生に責任を持てない自己を感じさせる。そこから泥沼の恐怖が出てくる。そんな感じです。
 実はそれが日本の民衆の伝統的な死生観でもあったのです。死の安堵感とは、むごたらしくなく生き、死を迎えることができたという安堵感でした。
 そこからみると松岡農相の自殺はみじめです。むごたらしく生きて、そのむごたらしささえ精算できない死に方をしているのですから。死者にムチをうたないというのは村に生きた人々のなかでのみ通用する発想で、なぜなら村では生きていただけで何らかの価値があったからです。ですから、誰であれ死んだら急に死者を追悼するというのは、日本の伝統的な作法ではありません。平安時代初期に編纂された民衆説話集『日本霊異記』を読むと、ともに村で生きた人でない限り、許されざることをした人は絶対に許さないというもうひとつの民衆の考え方がたくさん出てきます。とりわけ権力を持った人には厳しく、やはり平安時代には醍醐天皇が地獄に堕ちたという話が民衆のなかに広がったりもします。醍醐天皇が菅原道真を謀略にかけ死に追い込んだのは許されざることという話が伝わったからなのですが、権力維持のために悪事を働いたことに対してはことに厳しかったのです。
 日本の伝統的な発想はずいぶん誤解されているような気がします。阿部首相が「密葬」に参加できなかったと新聞は報じていましたが、「密葬」とは「ひそかに葬ること」であり、せいぜい近い親族だけでひそかにおこなう葬儀のことです。首相が行くような葬儀を密葬とは言いません。
 今日の日本の社会は一面ではずいぶん劣化しているような気がします。最近少しテレビを観て、日本のテレビはここまでひどくなっていたのかとびっくりしてしまいましたが、これも日本の一面なのでしょう。私たちはなんともむごたらしい社会をつくってしまったものです。この責任を誰がとるのか。私の責任の取り方とはどうすることなのか。真剣に考えてみたいと思います。

2007年5月29日火曜日

内山 節様 <2>

 内山さんが先週くださった返信で、竹内静子さんのことにも触れられていたので、竹内さんの「お別れの会」で感じたことをお伝えしたくなりました。多くの出席者がそうであったように私も、内山さんが竹内さんとごいっしょに暮らしておられたことを知りませんでした。ですから集まったみなさんが口にされたことは、お別れというより、お二人がそうであったことの驚き、そしてお二人への祝福でした。私は終始、不思議な感慨にとらわれていました。もしなにも事情を知らない人がこの宴席の様子を見たとしたら、お別れなのではなく、むつまじい小さな結婚の披露の宴だと思われたでしょう。あるいは内山さんにもそんな思いがあったのだろうかと、帰途、思ったものでした。
 韓国では、未婚のまま若い人が亡くなると、同じように亡くなった人を探して、死者と死者とを婚姻させるそうです。そのための披露も行い、以後、両家はじっさいにも親戚づきあいを続けるといいます。家としてのつきあいがいいかどうかは別として、私たちが生きるこの現実というものの相をあらためてとらえ直してみたくなります。「お別れの会」には「竹内静子の精霊」とだけ書かれた位牌が置かれていました。そのことがいまも深く私のこころに残っています。

 映画は「見えるもの」を手掛かりとして成立しているものですから、被写体となるのはつねに生きているもの、形をもつものです。当たり前のことですが、その生も形あるものも、いまそこにある一つの相として私たちは感受しています。でもそれを受け止めている側も日々移ろっているのですから、変化の動きが相殺されて見えにくくなるのでしょうか。あのときはこうだったと、いつも後になって変化してしまったことの大きさを思い起こすばかりです。
 もう二十六、七年も前のことになりますが、最初の監督作品となった『泥の河』を撮っていたときに、なぜ自分はこんなふうに感じるのだろうと自身で戸惑ったことがあります。俳優さんを撮ります。どう撮るか、それにはフレームによってサイズを決めなくてはなりません。初めてだったことの高揚もあったのでしようが、あるサイズで切り取ったその外は、どこへ行ってしまうのだろうなどと思ったのです。シナリオで書き、準備してきたことのあれこれは、子ども一人でもオーディションをするなりして出会わないことにはなにも始まらないのですから、撮影というものはむしろ出会いのよろこびの方が強いはずなのに、私は別れていくことの方を意識していたのかもしれません。撮影は、フレームの外となるものと別れていくこと、さよならをしていくことではないか、と。
 いささかナイーブに過ぎる感情です。その後の数は少ないとしても、まがりなりにも撮ることのできたいくつかの映画で、それがどう、どっちにより強く振れてきたのかは自分でもよく分かりません。ただ結果として、映画はテーマとしてそれを設定していなくても死生観といったものがよく映るものだとは思うようになりました。私はこのような死生観をもつ、そのように言葉でこうだとはいえないのですが、その周辺で右往左往していることだけははっきりと自覚できるようになりました。
 
 いつだったか、内山さんの上野村の家に出入りしていた小動物が死んで、死についてとりとめもなく話をしたことがあったように思います。私は死を怖いと思っているのに、内山さんはそのあたりがひどく穏やかで、あまりくっきりと線を引いていない印象がありました。だって向こうに行けばと、向こうといったかどうかがはっきりしないのですが、逝った人や動物や鳥たちともまた会える、そんな意味のことを語られたと記憶しています。すごいなあ、と思ったものです。その後、私も何人か親しい大事な人を亡くして、もしかしたらまた会える、そんなふうに思えるようにもなりました。どうやってその人を探すのか、そんな心配はなにもなくて、思った人のところへ真っ直ぐに行けるような気もしています。
 
 昨日、現職の農水相が首をつって自殺しました。おぞましいことです。疑惑の渦中にあった人の、日本人的な自死、などとも報道されましたが、こうしたときにいわれるところの日本というのは、いつのどこの日本を指してそういっているのでしょうか。武士による政治からですか、明治の近代化以降をいうのでしょうか。精霊も生きていた日本を考えれば、私たちはもっと伸びやかな精神と文化をもっていたのではないかと思います。
 それにしても醜いことです。政党の、あるいは政権のエゴイズムだけで片付けられません。政治は現実の選択だとしても、こうした不幸が起きるのは政治世界だけではなくなってきました。「現実」とはなにか、という認識が貧しくなってきている気がしてなりません。
 群馬県の知事選で、自民党の県連が党の公認候補を応援しないがきり、その国会議員は次の選挙で自民党公認としての手続きをとらないという報道がありました。こういう組織から離れていくことが地方自治だと考えるのですが、内山さんはどう思われますか。

2007年5月21日月曜日

小栗 康平様

 この数日、スケジュール的には少々苦しい日々を送っていました。ご返事が遅れたこと、お許し下さい。

 小栗さんとお付き合いを始めたのは20世紀が終わりに近づいている頃だったように思います。2001年に群馬で開かれた「国民文化祭」を小栗さんが総監督、私が総合プロデューサーで開催することになって以来ですね。

 群馬県上野村の私の家にはDVDが6~7百枚あります。子どもの頃に観ていたチャンバラ映画を含めれば、結構映画を観てきたのです。以前にある編集者から「黒澤明論を書かないか」とすすめられたことがあります。「僕が書くとひどいものになるよ」といったのを覚えています。その頃までにつくられた黒沢映画は全部観ていたのですが、天才的な監督であることは認めていても、私は黒沢映画に流れている思想が好きではありませんでした。「あの人の思想は西洋かぶれだから」と言ったのも覚えています。自立した個人が彼の理想なのです。それを見直すことができないままに、時代とずれていき、破滅していく。「どですかでん」はどうにもならないところにきていることを示していたような気がします。

 逆説的な意味で私の好きな哲学者にキェルケゴールがいます。19世紀の人で「死に至る病」が一番有名でしょうか。「死に至る病とは絶望のことである」から書き出されている本です。彼は人間は個人であることに固執しました。群れのなかで生きている「群衆」になることを拒否し、純粋な個人になりきるとき神と結ばれ自己が超越することにすべてをかけました。しかしその超越は実現せず、「のたれ死に」だけが待っていたのですが。

 ここまで自分を追い詰めた人、ということで私は好きなのです。しかし同時に彼をもって「個人」に理想を求めた時代は終わったとも思っています。そこに理想はありえないことを証明した、と言った方がよいかもしれません。

 私は戦後の近代化の雰囲気のなかで育ちましたが、それはまたこの雰囲気のなかに未来はないと感じて育ったということでもありました。ではどうしたらよいのか。その模索を続けている十代の頃に私を支えてくれていたのが竹内静子でした。18歳のときから一緒に暮らしていたのですが、昨年亡くなり、「お別れ会」には小栗さん、群馬県知事の小寺さんと、・・・ありがとうございました。

 私が上野村にはじめて訪れたのは20歳になって間がないころですが、ここでようやく自分の方向性をみつけだします。市民社会とか国民国家というヨーロッパ近代がつくりだした言葉ではなく、自然、風土、関係性、共同体、労働、といった言葉から未来をみる。

 知事の小寺さんに初めて会ったのは前橋の県民ホールでした。「地方自治法制定50周年記念」の講演を依頼されたのですが、そのときの私に与えられたテーマは「地方自治における自然の役割」というもので、このテーマで講演を頼みたいと言われたときは、絶句してしまいました。それまで考えたことがない難しいテーマでした。楽屋裏で小寺さんが「自治に自然が入らないのはおかしい。人間だけの自治ではいけない。だからその考え方を・・」と言っていたのを覚えています。

 国民文化祭の過程で小栗さんとご一緒し、多くの県民がここに結集し、文化、地域、風土、自然、労働と言った言葉を繰り返し使いながら、市民社会とは違う結びあう社会のあり方が、国民国家とは違う自分たちの世界のあり方が、行動をとおしてみえてきたと言う気がしたものです。その動きを支え続けてくれたのが小寺さんでした。だからこそ今度の選挙では自民党が離反したのでしょうけれど。

 すぐには返事を書けないかもしれませんが、寛容の精神でよろしくお願いします。小栗さんに教えてもらいながら、自分の考えを整理していってみようと思います。

2007年5月14日月曜日

内山 節様

 内山さんが、昨年亡くなられた竹内静子さんと交わした往復書簡「思想としての労働」から、私は多くのことを学んできました。この近代社会がかかえたさまざまな限界をどう乗り越えていくのかという示唆に富んでいて、他の著作とともに読む者を触発してくれます。竹内さんへのお手紙は「この社会は、無限に拡大しつづける経済を基礎にして、近代的市民としての人間と国民国家を基盤にしながら形成されてきました。」「ところが現在の私たちは、このいずれに対しても懐疑的なのです。」と始められています。私には書簡の全容を概説することはできませんが、近代的な個人としてとらえようとしてきた私たち自身を、さまざまな関係性のなかでもう一度とらえなおそうとする考え方が一貫していて、共感を覚えます。労働の過程そのものに蓄積されてきた技術の受け継ぎという関係、あるいは自然の循環に位置づけられる人間の関係性、古いものとして切り捨ててきた共同体の見直し、地域の新しい考え方などなど、どれも魅力にあふれるものです。

 私はこの視点を自分の映画の仕事に置き換えて考えます。映画は百二十年ほど前に「発明」されたメディアですが、当然のことながらそこには西欧近代の思想が色濃く反映しています。映画は画像の中心に人間、人物をとらえます。これはスクリーンという二次元の平面の、物理的な大きさからくる宿命といってもいいものですが、ことはそこにとどまらないで、人間を自立した個人として見ようとする近代思想を強めていくことになりました。映画の製作、流通も「拡大しつづける経済」を前提としています。でも映画は見るという行為が前提です。見ることで私たちはなにを見るかといえば、関係を見ている、そういってもいいでしょう。その関係は人物同士の人間関係、物語との関係といったことに限定されるのではなく、自然や風景、あるいは歴史といったことを含んでの人間存在が、なによりも「関係として」映ってしまうものだと、私は思っています。そのことを深めていくためには、映画のナラティブ、手法、文体を欧米の近代思想だけに頼らないで見つけていかなくてはなりません。

 こんなことを申し上げるのは、この七月にある群馬県の知事選が念頭にあるからです。96年の「眠る男」を製作した小寺弘之知事が出馬を表明していますが、小寺さんのほかに今回は自民党の公認候補(最近の新聞報道では推薦ではなく、公認になるとされています)と、早々と自民党県議を辞めて「眠る男」を槍玉に挙げて小寺批判を展開している無所属の候補と、少し複雑な構図になっています。群馬県はもともと保守王国とされてきたところですが、このことはまた別な機会に触れたいと思います。私は行政の発意と責任でもって映画製作を行った小寺県政が積み上げてきたさまざまな取り組みを評価していますが、そのことをどういうふうに発言していったらいいのか内山さんの意見もお聞きしたいのです。その取り組みの中には、内山さんが積極的に評価されている県民と行政との協働もあるでしょうから。

 フランスではアメリカ型の競争主義を掲げる大統領が誕生し、日本の国政では右傾化が顕著になってきています。こうした流れは世界的な傾向でもあるのでしょうが、その根底には生活実感とでもいうべき暮らしの手触りが奪われていて、不安の裏返しとしての民族主義や数値主義とでもいいたくなるような、思考の分かりやすさが大手を振って闊歩しています。暮らしの実感が乏しいことの背景には、映像をはじめとする猛烈な情報過多があるでしょうから、このことも映画の立場からいって看過できないことがらです。

 国民国家の成立と政党政治、地方自治と選挙というシステム、お尋ねしたいことがたくさんあります。いささか前のめりに書き出してしまいましたが、内山さんの寛容なご返事を待っております。