2007年6月24日日曜日

小栗康平様 <3>

 上海は暑そうですね。水あたりなどしませんように。 
 近代の思想にはふたつの傾向があると私は思っています。ひとつは民衆に絶望しいく傾向、つまり結局は民衆は駄目だったと考えていく傾向です。もうひとつは現実にはいろいろあっても最後は民衆は信頼できると考える傾向で、このふたつの間でたえず揺れ動いてきたのが全体としての近代思想でした。この絶望への誘惑を断ち切っていくとき思想は健全だったと私は思っているのですが、今日のテレビや映画にみられる一般的な傾向は、絶望でもないし、信頼でもないように感じます。いわば観客を消費者としてみているもので、消費者に受けるものをつくっているうちに、その消費者からも飽きられているのが、今日のテレビかもしれません。
 ここに多数派をつかもうとする者の落とし穴があるように思っています。
 民衆を信頼するとは、民衆を信頼する物語のなかに自分を置く、ということのように思います。私たちは民衆のすべてがわかるわけではなく、また民衆をひとつのものにしてしまうこと自体が不遜なことです。ですからこれは、信頼という価値判断をしているようで実は価値判断ではなく、信頼という物語のなかに自分をおいているだけなのです。私はそのことを大事にしたいのですが、この物語が破綻していくとき現れてくるのが絶望なのですから、民衆への絶望とは、実は、自分の描いた物語への絶望なのです。
 民衆を消費者としてみる視点にはそのどちらもがありません。あるのは民衆への侮蔑と迎合だけでしょう。
 選挙は多数派をつかまなければなりません。今日の自民党がしていることをみると、まさに民衆への侮蔑と迎合だけで、しかもそのシナリオまでが破綻しているのですから、あきれてしまいます。
 私が小寺さんを好きなのは、小寺さんはいつも自分の物語を語っていたように感じるからです。平和の物語、地域自治の物語、群馬の物語、・・・・・。群馬の民衆がつくる群馬の物語です。その中に自分を置いて知事としての仕事をしてきたように感じます。小栗さんが本気で知事選に参加しようとしているのも、おそらくそういうことがあるからでしょう。
 この消費社会のなかで、人間を消費者としてみないといことはむずかしいものです。しかしそれだけは拒否しつづけたいものでもあるのです。映画の世界でそれを拒否してきた小栗さんに敬意を表しつつ。