2007年6月22日金曜日

内山 節様 <3>

 今回は私の返信が遅れてしまいました。国際映画祭のコンペティションの審査で、十五日から上海に来ています。ふだん、あまり映画を見ているほうではないので、こうした機会はありがたいといえばありがたいものです。まとめて見ると、世界で映画がどのようにとらえられているのか、それなりに感じるものがあるからです。
 前回のお手紙で内山さんは、日本のテレビの、あまりにもひどい現状を指摘されていました。テレビというメディアは、どこの国でもニュースキャスターの報道番組、ワイドショー、スポーツ、お笑いや歌謡のエンターテイメントと、やっていることはそれほど変わっているとは思えませんが、ここまで無批判に繰り返され、その中身が以前に増してさらに貧しいものになっていくのは耐え難いことですね。そう感じている人は少なからずいるはずなのですが、テレビとはもともとこんなものだとあきらめてしまうのでしょうか、視聴の傾向は大きく変わってはいきません。「こんなもの」いう括りを私たちはどうつくってしまったのでしょうか。
 「こんなもの」には「この程度のもの」という侮蔑と、「こういうもの」だという浅い理解との、両側面があるかと思います。「この程度」については、商業が得意になって当てはめてくる枠組みでもあります。映画でもまったく同じことがいえるでしょう。映像は言後と違い、家庭でも学校でもそれを学ぶ機会をもっていませんから、どうしても一人ひとりの恣意的な選択に委ねられます。映画もテレビも多くの人たちを対象としたメディアとして成立してきましたから、そこではいつも商業が優先されています。最初からその選択肢が限られているのですから、どう視聴しても個人的な好悪の判断が固定されるだけで、よりよいものを求めることにはなかなかなりにくいのが現状です。
 画像は人物が喋ることを聞きやすいサイズとする。これは映画でもテレビでも基本とされている考え方です。テレビは映画に比べて画像が小さいですし、放送ということで映像よりも音声が優先されますから、その基本がさらに強く現れます。考えてみると、こうしたことも「こんなもの」の範疇で、どうしてそうでなくてはならないのか、そうであることの根拠やその限界についてあまり考えません。
 画像という二次元の平面に置き換えられたもので人の話を聞くとなると、そのサイズは人の上半身か首から上、アップなどといわれるフレームになることが一般的ですね。しかしこれはあくまで画像という作られた平面で接するときの,聞きやすさといって程度のことで、現実にはそこまで近寄って人の話を聞くことはあり得ません。でもこうしたサイズで人が喋っていることを、私たちは分かりやすい、伝わりやすいことだとして日常化して受けとめています。ここには全身がありません。身体の全体がないのです。さらにはその人が生きる「場」との関係性も捨て去られて、言葉と顔とが一人歩きしています。
 こちらに来る前に、想田和弘さんという人の「選挙」というドキュメンタリー映画を見ました。想田さんとは十五、六年前に、やはり映画祭でニューヨークへ行った折に会っていました。アメリカでの映画アカデミーを卒業したばかりで、タイトルは忘れてしまいましたが彼の短編を一本、見ています。都市での、閉塞した観念世界をとらえたものでした。その彼がまったく違う「選挙」という映画を撮ったことが驚きでもありました。
 川崎市議会議員の補欠選挙に立候補した、大学時代の友人を追いかけたものです。小泉自民党が圧勝した国政選挙と同時におこなわれたもので、市議の補欠選挙に国政の対立の縮図がそのままもちこまれていて、選挙戦はなんとも不思議な展開になります。その候補者は自民党が公募で選んだ人で、落下傘候補です。ただただひたすらに町内会をまわって顔を売り、口にすることは「改革の小泉自民党公認候補、××です」の一点です。他にはなにもいいません。小泉首相が国政の応援で川崎に入り、街頭で選挙カーの上に乗るのですが、市議のその候補者は車の下段で、上には上げてもらえません。垂れ幕だけがいっしょに下げられていて、それだけでも大変なことだと周囲からいわれます。私はこのドキュメンタリーを見ていて、テレビや映画で見るバスト・ショットとは、現実世界にこうした精神の形を作り出す。そう思いました。人の姿と言葉とが、私たち自身の感受性から引き離されて、正体のない概念に置き換えられているのでしょう。劇場型選挙などと当時いわれもしましたが、その劇場をテレビ、映画と考えれば、そう名づける前に劇場そのものを問わなければならないのでしょう。
 七月の群馬県の知事選挙でも、自民党は党としてのバスト・ショットをなりふりかまわず印象付けてくることでしょう。小寺さんがこれまでやってこられた地方自治は、こうしたバスト・ショットに反して、地域という場と人の全身とを、取り戻そうとしてきたのだと私には思えます。
 今日もこれから三本の映画を見ます。日本の同質的な社会に、映画やテレビがどのように根を下ろしたのか、掘り下げたいことはまだまだあるのですが、取り急ぎの返信で失礼します。